当時家康は、三河の本拠地である岡崎城を信康に譲り、駿河の前線基地である浜松城に拠点を築い
ていた。
今川の領地であった駿河を巡り、武田勝頼と陣取り合戦を激しく繰り広げていたからである。
家康は浜松城に移ってからは、側室のおあいの方寵愛し、築山御前を岡崎城に置き去りにしていまう。
その為家康は、岡崎城で交わされていた、嫁姑の確執には全く気付いていなかった。
夫には捨てられ、息子の信康は仇の娘にうつつを抜かしている。
とうとう御前は恨みと、嫉妬が入り交じった強情な姑となる。
『おのれ尾張の小娘め、今に見ておれそれに、松平一党にも一泡ふかせてあげようぞ』
その腹癒せは徳姫に同けられ遂に、岡崎城に不隠な空気が、立ち込めていくのであった。
いつしか御前はひとり寝の寂しさに、城に出人りをしていた減敬と言う医者と、密通を重ねるように
なっていた。そして、信康に側室をあてがうため減敬を使い、武田家臣の妾の娘を侍女に迎え入れた。
『信康、織田の小娘は女ごばかり産みおるが、男が産めぬ身体ではないであろうの〜』
『母上,そんなことは御座りませぬ、その上徳はまだ若き故、御心配も無用で御座います』
『何を申される。いつ戦場で打ち死にするか判らぬ武将故、世継ぎなくして戦死でもすれば、
『されど、子は授かりものと申すもの。こればかりは、三郎の力でも致し方ござらぬ』
『ならばこの娘をそちの側につかわそう、信康もきっと気にめすであろに』
と、減敬から手にした娘を、差し向ける。
若くて逞しい信康はたちまち、その娘の虜となり、側室に入り浸れる毎日となっていった。
『さては、近頃殿が寝所に参らさぬは、築山殿のしわざであったのか、おのれ!』
折しも徳姫の侍女が、御前の文箱から密書を手にいれたのはそんな時であった。
その密書は減敬を通じ、武田勝頼と交わされたものであり。そこには
『信康と手を組み織田を倒し、成功の暁には一国を与えるぞ』と書かれていた。
『築山殿の考えそうな事じゃ、事もあろうに武田と手を組み、織田と戦う魂胆であったのか。
うぬめ!尾張の父に告げてあげようぞ』
徳姫は直ちに筆をとったが、憎しみと,嫉妬に燃えて書かれたその内容は十二ヶ条にものぼった。
娘からの訴状を手にした信長にしてみればそれは、家康の忠義を為す絶好の、口実となったのである。
安土城が完成してから二か月後。家康の遣いとして酒井忠次が、城の完成祝に栗毛の馬を引き連れて
来た。
『三河の、さあっさぁ〜ずっとこれへ。奥州産の駿馬を贈ってくるとは家康殿も心にくいばかりじゃ、
大いに気に入ったぞ。今宵は美味い酒も用意してある故ゆっくりと、寛いでって下され』
『それはそれは誠に恐縮で御座います。お気に召して戴ければ殿もさぞ、喜ばれる事と思います』
『さっさっ〜、遠慮はいらぬ。ぐっと飲み干して下され』
酒井は天下人になった信長を前に、緊張した面持ちで酒を交わしていく。
『ところで酒井殿。岡崎の話をちと聞きたいがのう。予の婿、信康の評判であるが、
余り良くないと聴いておるが』
『おっ恐れながら若殿は今が、血気盛んな年頃故そのような、陰口を言う者がござりましょう』
『なるほど、予も若き頃は尾張のうっけ者と言われておったが、それにしてもちと度が過ぎておるのお。
それに聞き捨てならぬ噂もあるぞ、築山御前が、甲斐の勝頼と密通を計っておると聴くが、真か』
『まっ、まさかそのような事は、はっ初耳で御座います。
御前は事あるごと今だに、今川の全盛時代を口にするなど我ら一同、案じてはおりますが』
『そこじゃ! 松平の筆頭重臣ともあろうお主が、そのような事では岡崎城の安泰も図れまい。
勇猛果敢な三河武士も、武力だけでは国は納められぬ。特に、身内の謀反には些細な動きにも手抜
かりがあってはならぬ、そち達はそこが足りぬようじゃ』
『はっ、大殿様の仰せのとうり恥ずかしながら、戦に生きる我らはどうも、密かな動きにはうといもので
御座います』
『やはりのう、その上。御前と信康の事とあっては思いもらぬであろうし、ましてや、面と向かっては正せ
まい。しからば、わしが仕置してつかわそうぞ。築山御前と信康を、斬れ!
家康殿にしかと、伝えて下されよ』
思いも掛けなかった信長の処断に、酒井の火照り顔も急速に、青ざめていくのであった。
城の完成祝に酒井を遣わした家康は浜松城で、その帰りを首を長くして待っている。
城内では三河武士団が、駿河に攻め込もうとする武田との、戦の準備に取り掛かっていた。
『酒井忠次只今戻りました、武田の動きが気掛かり故、急いで戻った次第で御座います』
『おお酒井殿、大役御苦労であった。本来ならばわしも行かねばならぬが、武田勢の進軍を信長殿も、
分かっておられるであろう』
『大殿様も奥州の駿馬を、たいそう気に入られた様で御座いました。が…う〜ん…』
『何じゃ。うかぬ顔をして、戦まえのお主らしからぬ顔ではないか、安土で何かあったとでも言うのか』
『殿! とっ唐突では御座りますが、驚かぬよう心してお聴き下され。
大殿様より築山殿と信康様を斬れ!との沙汰で御座います』
『何じゃと! 二人を切れと申すのか! 訳を、訳を申せ』
『御前が甲斐の勝頼と、密通を計っておるとの事それに、若殿にも数々の嫌疑が御座りました』
『して、そちはどう答えたのじゃ』
『そっそれが。たいがいの事が事実であった故我も、返答には窮する始末で御座いました』
『何じゃとそれでは、おめおめ事を認めてしまったと同じではないか、臨機応変に返答は出来なかった
のか。この無骨者めが!』
『申し訳御座いませぬ、殿のおおせの通りわが無調法、いか様にも仕置下され』
『いや、思えばわしも迂闇であった。信康に岡崎城を任せきりにした事や、仇の嫁と姑を同居させていた
などこれこそ、わしの責任じゃ。』
と言って、眉間にしわを寄せ、苦悩に満ちた顔つきで奥の間に姿を、消して行った。
戦支度のざわめきを遠くに聞きながら、静まり返った部屋で家康は一人、眩く。
『わしに、忠義の証を求めているのか、信康の武将としての器量を危ぶんでかそれとも、仇となる
今川の血筋を絶つ為か』と、あれこれと思い巡らした末、決意の別れ路に立った。
『松平一党、全精力で織田と戦うか、それとも、忠義の証を立てるべきか。戦うか、立てるべきか……
それは身を引き裂かれんばかりの、苦渋の選択であった。
『とにかく信康から事情を聴かねばならぬ。信康をここへ!』
戦の準備をしていた信康は手を休め、奥座敷の家康のもとへ向かった。
『父上何か、御用で御座いますか』
『信康。突然ではあるが驚くではないぞ。安土の父がそなたと母上を、切腹させよと申してきた』
『なツ何んだと、何かの間違いか、性の悪い冗談では』
『わしも、納得出来ぬ事ではあるが、心当たりはないか』
『父上、何を申されますか。長篠の戦の外数々の手柄、舅御に褒められこそあれ、切腹の沙汰を受け
ようとは,思いもよりませぬ』
『では徳殿に、恨みを買うような事はなかったか』
『強いて申すならば母上から、世継ぎを迫られ側室を取ったことであろうかさりとて、その程度の事で
切腹しろとは合点がいきませぬ』
『ならば母上が勝頼と、通じていた事は知っておったか』
『いえ、そのような想像すら出来ぬこと、知る由も有りませぬ、もし知ろうものならば即座に、父上に
申し上げておりまする』
『左様であったか。とは言え、信長殿より下知が下った以上速やかに三河へ戻り、沙汰あるまで大浜で謹慎しておれ』
それは、あらゆる感情を押し殺した重苦しい言葉であった。
信康を問い正したのち家康は急拠、岡崎城へ赴き築山御前に、信長からの沙汰を告げる。
『瀬名、わしは信長殿より、そちと三郎を斬れと命を受けた。舅御はそち達が勝頼と通じていると言って
おるぞ』
『うぬめ! 徳姫の密告であるか。今川の血を引くわらわと信康を将来に、禍を残さぬ為との言い掛かり
であるぞ。勝頼と通じるなど信じなされるのか』
『されど、火のない所に煙は立たぬ。真相はともかくこれは、わしの忠義が問われているのだ。
しかるにそちも覚悟いたせ』
『いいえ、わらわはその様な事は断じて受け人れませぬきっと、信康も承服できぬであろう。
親として子を思う気持ちがあるならばいっそ、武田と手を組み織田の一党どもを打ち倒されよ』
『わしも悩みに、悩み抜いての決断じゃ。松平の戦力からして、承服するしかないのだ。許せよ』
家康の沙汰に声を張り上げ、いきり立つ御前の握り拳は激しく、震えていた。
浜松城に戻ってから数日後。家康は大浜に謹慎させている信康を、浜名湖畔の堀江城に移させた。
『もしや誰かが舟を漕ぎ人れ信康を、つれ去ってくれるのではそれに、信長殿も思い直して下さる
かも知れぬ』と家康は淡い期待すら抱いていた。
度重なる心労の為遂に、床に伏してしまった家康は、切腹の執行をためらい再び信康を二俣城に
移させた。
城の真下にはたっぷりと、水を満たした天竜川が流れている。
信康は夕暮れになると、天守閣の小部屋から夕日に輝く水面に、過ぎ去った日々を、想い浮かべる
のであった。
城主の大久保忠世は毎晩、燃えきれない若き信康の気を鎮める為に話し相手を務めてきた。
謹慎の沙汰を受けてから既に、ひと月半が立とうとしている。
この頃になると信康の覚悟も座り、未練のない穏やかな境地となっていた。
『信康の信は信長の信、康は家康の康、同盟の絆としての名であるが、こんな形で散ろうとは
皮肉なもの。我も母上も、戦国に生まれた哀れな生け賛、誰を恨むこともできぬ。
これがわが定めと言うものであろうか』
9月15日夕刻、浜松城から二人の使者がやってくる、天方山城守道綱と服部半蔵正成であった。
『若殿、浜松城から使いが参ったようで御座います』
『大久保殿。そちとの話で肝の底まで静まった、礼を言うぞ』
『いよいよで御座いますが、取り乱し無く立派に果たれますこと、見守り致します』
『天方山城殿より、介錯を仰せ仕りました。同じく検視役、服部半蔵で御座います』
『おふた方、御苦労である。して山城守、最後に伺いたいが母上はどうなされたか』
『聴くところによりますと先の29日岡崎にて、若殿の助命を訴え自害されたとの事』
『そうであったか、母上がそこまでを。父上には身体を患うほど想われ母上は、助命嘆願までも。
信康は、幸せ者であるぞ』
『若殿、最後に、父上に何か言い残すことは有りませぬか』
『武人信康、命を惜しむ思いはいささかも持ってはおらぬ、されど、天道にも父上にも背き、勝頼公と
通じ合ったとは心にも無き事を、岡崎三郎信康は天地神明に誓って身にやましい事はなかった。
最後まで、真の武士であった事を伝えてくれ。 残す言葉はこれだけじゃ!いざ天方殿、介錯を〜』
『父上〜〜〜〜 うっ!』
『若殿!仰せにより介錯、御免〜』
フィッ! と太刀筋が弧を描いた瞬間、ブシッと血潮が襖にしぶき、胴体から噴き出す鮮血と共に
首は床に、ころがり落ちた。
天方は暫らくぼう然と立ち疎んでいたがやがて、刀を落とし泣き崩れるのであった。
幾多の修羅場をくぐった家臣達さえもその、壮絶な信康の最期に皆、首をうなだれ嘆き悲しんでいた。
家康が浜松城で、苛酷な報告を受けたのは、翌日の昼過ぎであった。
『天方山城及び、服部半蔵の両名ただ今戻りました』
『大義、御苦労であった。して信康は、取り乱しはせんだったか』
『若殿は、天地神明に誓って一点の、やましさもないとの言葉を残し立派に果されました』
『信康! そんな事は分かりきっておる、信じておったぞ。
にもかかわらずおぬしを救えぬこのわしは、これほど惨めで悔しい想いをしたことはない。
信康、そなたの犠牲を無駄にはすまいぞ。
わしは必ず天下を取り、泰平の世を創ってみせる。そしてその暁には盛大に、供養を致すほどに。
信康、誓い申すぞ〜〜』
お家存続と言う大義の前には我が子の命さえ、見殺しせねばならなかった戦国の非情さを家康は、
身をもって知ったがそれは生涯、心にしこりとして残る深い傷痕を残すものとなった。
それは正に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
時に天正7年9月、信康21才家康38才であった。
日本の歴史に燦然と輝く徳川300年。その礎となったのは信康の、無念の想いを背負って生き抜いた
家康が、天下泰平の世を造らねばならぬと、堅い決意を持っていたからである。
(参考文献)
徳川家康 山岡荘八講談社
徳川家康 神坂次郎成美堂出版
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